昭和50年07月28日 朝の御理解
御理解 第53節
「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」
昨日は午後から蛭崎さん所の奥さんが亡くなられて、それで合妃祭と五十日祭が、ここで執り行われました。御親戚の方達全部で十七名。本当に金光様の御信心に依る告別式とか又は昨日頂かれた、今迄は自宅であったんですけれども、昨日は合妃祭ですから御遺骨も一緒に納められました。それでまぁ大変有難いお祭りを頂いてと言うて、御本人は勿論ですけれども、お子さん達も御兄弟達も大変喜んで下さいました。その後で御直会の時でしたけれども、蛭崎さんのお兄さんという方が、行橋から見えとりました。
先生こうして御信仰なさっておられて、迷いというものは起こりませんかという質問がありました。私は初めてそんな質問を聞かせて頂いて、改めて私自身がおかげを受けておるなと言う事を再認識した訳ですけれども。そうですね迷いと云う事は起こりませんよ。と云うて信心が是でよいとは思いませんけども。まぁこの迷いのない生き方が愈々垢抜けして行くというか、深く広くなって行く事は、是からも考えられますけれども、先ず迷いと言う事は起こらない様ですね、と言う事をお話した事でした。
迷いが起こらないと言う事はどう言う事かと言うと、あれもおかげであった是もおかげであったと、分かる様になると、本当の信者じゃと仰るがあれもおかげであった、是もおかげであった、一切がおかげであると云う確認が出来る様になる。そこには迷いの雲もない訳であります。信心しておるとにどうしてこう言う様な事がと言う事じゃない訳です。例えば蛭崎さんの、昨日のお話を聞かせて頂いてとりますと、私自身の事と同時に蛭崎一家の事を委ね任せる方は。
合楽の親先生より他にはないと、私は確信致しましたから、改式を致しましたち言われる。云うならば迷いがない。もうどうですかね北野の秋山さんが、月次祭の帰りに追突されなさった。追突した方が蛭崎さんであった。当時は北野署に勤めておられたが、今は久留米本署の、私はそれを聞いてまた驚いたんですけれども。もうそれこそ実に優しい方です。警察官とは思われない位に優しいです。それが何と暴力団の係だそうです。しかもそこの部長さんをなさっておられる。
これは私はご本人から聞いた訳じゃございません。末永先生があちらへ何回も、旬日祭には今度は末永先生が参りましたから、聞かせて頂いて同僚の方達が、同僚と言うが部下の方達も幾らも見えておって、蛭崎さんの人格の素晴らしさと言う事を、非常に褒めちぎられるそうです、誰方も。そしてあちらが行かれると、どんな暴力団でも大人しゅうなって静まるそうです。云うならば豪の行き方ではなくて優の行き方ですね。
云うなら風と太陽の話がありますが、どこまでも太陽の暖かさで、外套を脱がせると云う生き方の御人物ですね。そして、実にまた行き届いておられます。まあだ信心は、ようやく、秋山さんどの位になるでしょうかねあれから。まだ一年去年の十二月じゃったでしょうか。まだ一年と一寸位で言うなら、金光様の信心の神髄と言った様なものは、まだ分かっておられないと思いますけれども、合楽にお参りをされて合楽の云うならば信心と云うか、まぁ私の信心と云うか。
そう言う様なものに帰依されたんじゃないかとこう思うです。自分自身が例えば自動車で、秋山さんの車に追突された時に、今迄かってそういう丁寧な方ですから、事故でも起こした事はなかったけれども心が暗い。本当にあれやこれやと、とつおいつ思い乍らの運転をしておりましたから、ほんにこんな不調法をしてからと言う事であった。実は家内が医大に入院をしております。しかも大変な重体で難しかろう様にあるという訳です。そういう話をなさった時に。
秋山さんが私共は実を云うと、今晩は合楽の金光様のお月次祭に、一家中でお参りさせて頂いての帰りでございました。もし貴方がお疑いならんならば、金光様にお取次お願いします。奥さんの事お願いさせて頂きますと言う事であった。どうぞ一つお願いをして下さいと言う事からの信心です。まぁ不思議な縁と云や不思議な縁です。それからご自分もお参りになる様になり、もう不思議にそれこそ薄紙を剥ぐ様におかげ頂いて行かれたんです。そして一応仮退院と言う事が出来られる様になり。
奥さんも同道で御礼参拝が出来られる様になって、そしてその間に御普請が出来まして、その御普請なんかも見て大変喜ばれて、子供さん達の事も、子供さんと云う方がこの方も大変立派な方ですが、それこそ日本で何名かの五本の指に数えられる様な方だそうです。息子さんと云う方は。そして結果に於いては奥さんが亡くなられました。大概の者がです一年ぐらいの信心。只奥さんの病気を治して貰いたいばっかりで、一心にお参りすると言う所までは誰でも変わりません。
けれども一年余りのお参りをしておるうちにです。信心の何たるかというものが分ると言う人は少ないです。いっちょ家内の病気の時にお願いしたばってん、とうとう助かりきらじゃったと云うて、それでおしまいになるのが普通です。云うならば、あれもおかげであった、これもおかげであったと言う事が、かすかに分かって来られた訳です。家内が病気しておった事も、追突しとった事も、そして亡くなった事も、またおかげであったと気付いて行かれておる訳です。
そして昨日の蛭崎さんのお言葉を借りるとです。私自身の事は勿論家族一家中の事を、合楽の親先生に任せるという気が出来たとこう云うておられます。それは結果が良いとか、悪いとかではないと言う事。なら合楽でも熱心に信心をしておるけれども、まぁだ改式という所までは、それこそ迷うて居られる方が沢山あります。それこそ沢山です。私は昨日の御霊のお祭りの時に、今日の霊様は例えて言うならば、暑さで汗汚れで何か気持ちが悪い様にあった。
所がお暑いからシャワーでも掛かって来て下さい。そして冷房の利いた部屋で、スキッと爽やかになられたと云うのが今日の霊様の状態です。それはいつまでもスキッと爽やかと言う事ではありません。又汗が出るまた汚れる。だからまたそこにはシャワーも掛からんならん、爽やかな気分にもならなければならんのですけども、結局後のお祭りを大事にさして貰うて、気分の良い御霊様として安心の御霊と喜びの御霊として、おかげを頂いて行かなければならないと言う事が。
昨日の後の御理解の芯になっておりました。御霊様が何かモヤモヤしたもの。云うならば汗が出て気分が悪い、気持ちが悪いベタベタしよると言う様な状態の時に、シャワーでも掛かったり、そして爽やかな部屋に通させて頂いたら、それこそ気分がコカコーラのキャッチフレーズじゃないですけれども、スカッと爽やかな気分になれると云う事。それは何時もそれを維持する事は出来ない。
又汗が出たらまたシャワーをかからなきゃならない様にです。このお祭りをさして頂いたから、それで良いと云うのじゃない。後々御霊ののお祭りを、また御霊様を日々大事になさらなければいけないと言う事でございましたがです。私達の信心がやっぱり同じ事。一遍お参りしたから良いと云うのじゃない。一遍研いたからそれで良い事じゃない。絶えず研く事に改まると言う事に、心を使わせて頂かなければならない。
私は今日信心の有難さと云うものは、自分がどのくらい有難くなっておるかと言う事が認識できた時に、信心の有難さというものはあると思うですね。そりゃお願いしておったらお願い通り、神様のおかげで不思議な事じゃある、有難い事じゃあるという時に、有り難いと言うておるのは、ほんなもんじゃないです。結局自分がどれだけ変わり得ておるかと言う事です。どれだけ自分が不平不足を思わんで済む。
私になっておるかと言う事です。どれ程私が篤い広い意味合いで、有難い有難うございますと言う事が、言えておるかと云うことが信心です。信心が進んで行くというのはそうです。それには私はどうでも、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かる様にならなければいけない。そして思いとは願いとは反対の事になっても、愈々神様の有難さと云うものが分かっていく信心になって行かなければならない。
それが信心なんです。信心をすれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多いと仰せられますが、信心させて頂くと段々分かって來ると言う事は、今迄おかげでないと思うておった事がおかげであったと分かるのである。隠れておった今迄気も付かなかった。そこに、こういうおかげを頂いておったと気付かせて頂く事である。目に見えるおかげが氷山の一角であるならばです。その根にある所のおかげの広大さに、愈々開眼して行くことであります信心とは。お願いそしてお願い通りの。
いやお願い以上のおかげを受けたと言う事が有難いと云うのは、信心ではありません。おかげが受けられると言う事は、信心させて頂く者でなからなければ得られない事ですけれども、それが有難いのじゃない。今迄気が付かなかった、隠れておった所の有難さを発見して行く事。 あれはおかげではないと思うておった事の中にです。あれもおかげであったと分かる様になる事。
初めてあれもおかげであった、是もおかげであったと言う事になるのです。だからそこには迷い等というものが起こって來る筈がないです。あれもおかげであった、これもおかげであったと云一切をおかげとして頂ける心の状態。その心の状態を、有り難いというのです。無理に思わないでも有り難いというものが、あれもおかげであった。これもおかげであったと分かる、その心の状態が、深い有難さなんです。
何かを貰うた時に、涙の出るごと有難かったと云うのとは訳が違うです。信心をさせて頂いておるとです、段々それが分かる様になると仰るが、実際は分かる様になる信者と云うのは少ない。それがおかげであると分かる様になって行かなければいけません。いわゆる本当の信者じゃと云われる本当とは、ここでは真実と書いてあります。真実の信者を目指さなければなりません。蛭崎さんの例をとりましたが。
信心はまだ一年と何ヵ月位でございますけれども、本当の信心が分かって行かれておる姿が、昨日の五十日祭なら五十日祭にも現れておる様な気が致しました。どうでも一つあれもおかげであった、これもおかげであったと分かる世界を開いて行かなきゃいけません。いやそういう世界に住まわせて頂くおかげを頂かなければなりません。いわば迷い等というものは、起こそうにも起こしようがない程しのおかげを頂きたいですね。
どうぞ。